熱心さの弊害

本年も残りあとわずかとなりました。師走になると、何かと慌ただしくなり、各施設や各家では大掃除が始まります。ところで、私は掃除自体は好きなのですが、この「年の瀬の大掃除」が、どうにも苦手です。
会社でも仕事納めの前に大掃除を行うのが恒例です。そのときに、何人かのグループごとに動くのですが、そうすると、普段の掃除をほとんどやらないような人が、その時に限って、一生懸命、他の人以上に働き始めてしまうことがあります。そうなると、周囲は計画通りに動けなくなり、その人はその人で、自分だけが一生懸命やっているような感覚になり、他の人がなまけているように見えて不満を持ってしまう。周りが見えなくなっているから、何を言っても聞き入れなくなる。結果的に、お互いに良い感情を持ちません。
また、多忙を極めると同じようなことが起こりがちで、仕事に限らず、多くの現場で類似の事態を見てきました。私はそうしたときに、よく次の文章を思い出します。
――つい「自分の尺度」を「社会の基準」と思い込み、他人を変えることにエネルギーを注ごうとしてしまっていることはないでしょうか。しかし、そのエネルギーはかえって問題を複雑にし、人と人との「和」を損なう力になりかねません。
人は物事に一生懸命に取り組んでいるときほど、周囲が自分ほど熱心ではないように見えて、〝自分だけが頑張っている〟という気持ちを持ってしまいがちです。熱心さは大切なことですが、それは時に、自分の心を堅く、狭く、高慢にしてしまうことがあります。私たちが「熱心さの弊害」に陥ったとき、他人のよいところは見えなくなり、周囲から「和」が失われていくのです。
一生懸命になっているときほど、考え方や歩調の異なる人を受け入れる「心のゆとり」を忘れないようにしたいものです。
(『ニューモラル 心を育てる言葉366日』モラロジー研究所刊)
感情のわだかまりが生じるような事態に直面して学んだことは、
「熱心に取り組むことは大切だが、他人に過剰な働きを求めることは、つまずきの原因になる。また、他人が私に共感してくれるとは限らない。他人を責める前に、自分ができないことを他人がやってくれているということに感謝して、相手の立場を思いやり、歩み寄る努力が必要だ」
ということでした。
相手の努力を認めたうえで冷静になって対応できれば、お互いに心のゆとりが生まれるよう、心づかいと行いを考えて行動していきたいと思います。