「教えること」と「育てること」

我が子の元気な姿を見ながら、育児や子育て、そして「教育」について考えることが増えてきました。
「教育」をあらためて書いてみると、「教える」ことと「育む」ことの2文字によって成り立っています。でも、最近の教育はとかく「教える」ことのみが先行し、「育む」教育がおざなりになりがちだと感じます。
そんなことを思いつつ、インターネットで検索すると、次のような一文を見つけました。
「教育について語られるとき、おおく語りつくされるのは「教える」「教えられる」についてで、語られることの少ないのは「育てる」「育てられる」についてです。教育が「教」と「育」と、二つからなるものであるにもかかわらず、です。(中略)
「教」としての教育がもとめるのは万人のためのマニュアル。「育」としての教育がもとめるのは個性のためのプログラムです」
(『すべてきみに宛てた手紙』長田 弘、晶文社)
子供の成長過程には、様々な予期できない事が起こります。これはこうなる! などと安易なマニュアルでは対処できないことが多々あります。一人ひとりの個性を育むためのプログラム、換言すると、知識を教えるだけでなく、次代を担える人材、適切な判断を自らができるように育てることが、親や年輩者の役目の一つだと共感しました。
獲得した知識の使い方を知らない大人ができあがれば、その結果、良識や分別といったものが社会から雲散霧消してしまうことになるでしょう。与えられた知識を有益に使いこなせるようになってはじめて「教育」というものは完結するといえるのではないでしょうか。
フランスの詩人ペギーは「教育の危機は教育の危機ではなく、生命の危機なのだ」と言っています。
思想家のルソーは「世界で一番有能な教師よりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供は立派に教育される」とも言っています。
子供と正面から向き合うこと、話しをすること、目を見て自分の愛情を伝えること。話を聴く心を創り出すのも親の役目でしょう。また、正しいと信じることを、誠意を持って教え伝えることは、子供が確かな判断力を持つことに通じます。
「育てる」立場になって、近年盛んに言われている「心の教育」とは、噛み砕くと「育む」教育のことではないのかな、と思えてきました。
家庭の中での父権不在が叫ばれることが多い昨今、子供の教育に父親が参加しなくなったことと、荒れる子供の登場は無縁ではないような気がします。
私も一人の父親として、次世代の教育への責任を重く受け止め、よりよき家庭、よりよき社会につなげていければと思います。